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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和42年(う)186号 判決

被告人 狩野久勝

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、富山地方検察庁検察官近藤功の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

所論は要するに、本件公訴事実並びにこれと連続する一連の犯行を明らかに自白している被告人の捜査官に対する各供述調書は、

一、被告人は同供述調書中において

1  小坂信平所有の普通乗用自動車プリンス(以下小坂車と略称する)の運転席物入れより小型マツチ二箱を窃取したこと、

2  大源義次所有のマツダ軽四輪ライトバン車(以下大源車と略称する)の運転席に放火したこと、

3  柳川友一、蓮間郁夫、中川勇各所有の自動車内からそれぞれ煙草を窃取したこと等の捜査官が当時探知しておらず、真犯人のみが知つている事実を供述していること、

二、警察当局は被告人の任意の自供に基づきその裏付けを確認し、被告人を緊急逮捕するに至つたものであること、

三、被告人は本件公訴事実および一連の行動の一部につき裁判官に対し勾留尋問並びに第一回公判の当初においてこれを認めていると共に、純然たる第三者である精神鑑定医に対しても放火の事実を自白していること、

四、警察官および検察官は、特に暗示、誘導、強制に亘ることのないよう慎重な留意の下に被告人の各供述調書を録取したものであること、

にかんがみると真実性に富み信憑性の高いものであり、他の補強証拠と相俟つて本件各公訴事実の証明は充分であるのに、これを証拠によらずして被告人の捜査官に対する各供述調書は、誘導、暗示によつて作成されたものであると妄断して排斥し、被告人に対し無罪を言渡した原判決は、証拠の価値判断を誤り、延いては重大な事実誤認をしたもので、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れないというにある。

よつて審案するに、被告人が捜査官に対し本件各公訴事実並びにこれと一連の関係にあると推認される多数の犯行を供述していることは捜査官作成の被告人に対する各供述調書によつて明らかである。

そこで所論に従い、右各供述調書の信憑性の有無を検討すると、

所論一の1の論拠については、被告人は司法警察員に対する昭和四一年八月二一日付供述調書中において本件犯行に使用したのは小坂車から窃取したマツチ二箱による旨供述し、同車の所有者小坂信平は同年八月二二日付の司法警察員に対する供述調書中において、同車からマツチ二箱が紛失していた旨の供述をしていることは所論の通りであるが、本件犯行並びにそれに連続して行われた各放火事件の現場において、犯行に供されたものとして事件発生直後捜査官によつて押収されたマツチ軸木当庁昭和四二年押第六四号の一一号一本(島田隆市管理のライトバンから押収)、同証一三号一本(塩沢正三管理の軽乗用車から押収)、同証一五号六本(中谷美信管理のホンダバイク付近で押収)を見分してみると、太軸と細軸の二種類があり、捜査官は本件事件捜査の当初から、犯人が二種類のマツチを使用したことは当然知悉していた筈であり、これが出所についても被害車輛の持主等について詳細に調査していたと推認するに難くないので、捜査官側は被告人の供述以前に小坂車からマツチ二箱の紛失のあつた事実を知つていた蓋然性が極めて高いというの外はなく、従つて右被告人の供述は犯人のみが知り得る新事実の供述であるとは認め難い。

所論一の2の論拠については、被告人は捜査官に対し自宅から持参した赤や青の薬頭のついた二種類のマツチを三本宛纒めてすつて三回大源車の運転席に投げ入れたと供述しているが、捜査官が同車から押収したマツチ軸木(同証一〇号)は一〇本であり、これ等を仔細に見分してみると薬頭だけが燃えていることが明らかに認められるもの一本薬頭だけが燃えていると思われるものが一本で、その余の八本は点火された形跡は全く認められず、それらの八本は水色薬頭のもの一本、緑青色薬頭のもの二本、薄青紫色薬頭のもの二本、赤色薬頭のもの二本、白色薬頭であつたと推認されるもの一本で、それ等の種類は五種類以上あつたと認められ、これらのマツチの点火状況並びに種類において被告人の供述と符合せず、又被告人は捜査官に対し点火したマツチを三回目に投げ込んだ後に火がついたらしく同車の運転席から煙が出はじめた旨供述しているが、同車から押収した座席カバー(同証九号)を見分すると同カバーの焼痕は約五ミリメートル×六ミリメートルのものと約四ミリメートル×五ミリメートルのものの二個であり、その形状は略円形で小規模な熱源によつて同カバーの材質であるビニールが熔けたものと推認されるが、かかる程度の熔け方では、夜間運転席から煙りが出はじめたと認識できるが如き量の煙がでるものとは考え難い。

殊に原審証人高田いね子の実験に基いた供述並びに吾人の経験則によれば、マツチ軸の燃焼によりビニール布に熔痕ができるときは通常マツチの軸木の形に沿い長い形状にできるものであり、薬頭のみの燃焼によつて熔痕ができる場合は円形になるが、マツチ軸木はビニールに熔着し、それはむしりとらねばビニールから離れないものであることが窺えるのに、前記カバーの熔痕は円形のものであり、証人大源義次の供述によつてもマツチ軸木が同シートに熔着していた事実があつたとは認められない。そればかりか同証人の供述によれば、同車は本件犯行日の午後一〇時前頃に車庫に入れられていたことが窺われ、同日午後一〇時半過(検察官の主張によれば、被告人が路傍にあつた同車に放火したとしている時刻)には同車は路傍にはなかつたことが推認され、同証人が煙草を吸うことからすれば、右マツチ軸木は同証人が長日時の内に車内に取り落したもの、また、右熔痕は同証人が煙草の灰殼を落してできたものであることの蓋然性が高い(右熔痕の形状からすれば煙草の灰殼によつてできたことを思わしめるものがある)ので、この点に関する被告人の捜査官に対する供述も真実の供述であるとは断じ難く、かかる被告人の供述をもつて犯人のみが知つている秘密の暴露であるとは認め難い。

所論一の3の論拠について、被告人が所論の煙草を窃取した旨の自白は捜査段階並びに原審及び当審公判廷を通じて一貫しているところであつて、同窃盗の事実は一応真実であると推認するに難くはないが、これらの窃盗後被告人は一旦自宅に帰宅していることは証拠上明白であるから、その後再び家から外出して犯したとする本件各犯行と右窃盗犯行との間には行為の連続性がなく、両者は不可分の関係にある一連の行為であるとは認められないので、右窃盗の行為に対する被告人の自供の真実性は、本件各放火の犯行に対する被告人の自供の真実性を証明する資料となすを得ない。

所論二、四の各論拠については、(証拠略)によれば、捜査官は昭和四一年八月一九日午前一〇時頃から任意出頭して来た被告人の取調べを開始し翌二〇日午前零時二五分に至り被告人を緊急逮捕し、同日午前二時頃に被告人の第一回供述調書を録取し終つたものであることが認められるが、本件放火並びに一連の事件の罪体については捜査官において事件発生以来綿密な証拠蒐集が既になされていたのであるから、被告人の本件放火についての任意の自白が容易に得られたのであるならば、通常の勤務時間中に被告人を逮捕することもでき得たと思われるのに、一四時間余の取調べをなし、深夜に至つて漸く被告人を逮捕しているのは、被告人が容易に本件犯行を自白しなかつたことを裏書するものであり、鑑定の結果によつて認められる被告人は持続性の欠如、被影響性、精神薄弱等多数の精神的欠陥を有するものであることを考え併せると、被告人はかかる長時間に亘る捜査官の取調べに抗し切れず、取調官の暗示や誘導に従つて本件犯行を供述した疑いなしとするを得ない。

ことに本件についての捜査官の取調態度については、証人狩野甚太郎、同狩野康能の原審並びに当審における供述によれば、被告人の家族である同証人等は同年八月二四日午前七時過ぎから午後一一時四〇分頃まで捜査官の取調べを受けた事実が認められるが、簡単な事実の取調べであつたのに、かかる長時間を要したのは同証人等の被告人のアリバイに関する供述が、捜査官において既に認識していた状況と異るものであつたので、捜査官においてこれを検討すると共に、その従来の認識に合致せしめようとして反問を繰り返したためであつたことが推認されるが、何れにしても右の取調べ状況からすれば捜査官は本件の取調べに当つては必ずしも供述者の任意の供述を録取したものではなく、その既に認識していた状況に供述を符合させるため、可成りの努力をしたことが窺える。

右事実から考えれば、司法警察員の被告人に対する取調べには誘導や暗示が介在したのではないかとの疑念を更に深くせざるを得ない。

そうであるとすれば、その後検察官にのべた被告人の供述も、既に誘導又は暗示を受けて記憶した事実を繰り返し述べたに過ぎないとの疑が残り、この点に関する前記検察官の論拠にはにわかに賛同することができない。

所論三の論拠については、被告人は裁判官の勾留尋問並びに鑑定人医師石黒順吉に対し本件放火の一部を自供していることは証拠上明らかであるが、被告人に対する精神鑑定書によれば、被告人は常に放火の事実を自供しているものではなく、何れも初問においては否定し、次問において捜査官に自白していることを告げて質問した際に、医師の誘導に乗りこれを肯定するという形態で自供しているに過ぎないことが認められる。

右の如き経過による自白は同鑑定書の結論とする被告人の知能の低さと被影響性を立証することはできるとしても、未だこれをもつて真実のものとするを得ないことは多言を要しないところである。

ことに被告人は煙草窃取の事実については、これを終始肯定していることに徴すると被告人が真実犯した犯行については供述は変らず、真実犯していない犯行については供述が変転するのではないかとの疑いを持たしめる状況にあり、右の如き被告人の態度からすれば、裁判官の勾留尋問は先づ犯罪事実の要旨を告げてからなされるものであるだけに、その際、被告人が放火の事実を肯定したとしても、これをもつて真実の自白であると断じ難いことは前同様である。

従つて被告人の捜査官に対する供述は真実であると主張する検察官の論拠は何れも根拠が薄弱であつて採用しがたい。

そこで進んで、右論拠外の観点から被告人の捜査官に対する供述の信憑性について検討してみると、それらの供述調書中には後記の例示を始めとし客観的証拠や吾人の経験則に符合しない部分や、供述自体の矛盾撞着が多数見受けられ、その供述を真実の自白と認めることは困難である。

被告人はその捜査官に対する供述調書中において、本件公訴事実と一連の関係にある塩沢正三管理のマツダキヤロル軽四輪自動車運転席にマツチ一本をすつて火をつけた旨供述しているが、押収にかかる同運転席シート(同証一二号)を仔細に見分してみると、その焼痕は約五センチメートル×六センチメートルのものと約一センチメートル×二センチメートルのものの二個であり、何れも自然に消火したものであるが、その消火の原因は同シートの材質が表はナイロン質で、その内側は化学繊維スポンヂ質であり、それらは自ら独立して燃焼することが困難なものであり、他の可燃性物が燃焼した際の熱によつて同シートの材質が熔けたために右焼痕ができたが、その可燃物の燃焼終了と共に同シートの熔解が終了したために消火したものとみられ、現に右焼痕縁には焼痕を与えた熱源であつたものの一部と思われる小紙片二個が熔着しており、その小紙片を一部としていた紙が点火材料として使用された蓋然性が極めて高い。何れにしても右焼痕はその形状等からすればマツチ一本の燃焼によつてできたものとは到底認められず、犯人はまるめた紙に火をつけて運転席に投げ込んだものであると推認され、これを単にマツチ一本をすつて放火したとする被告人の供述は客観的な証拠資料に符合しない。右はその一例である。

なお、被告人の家族の証言ではあるが、被告人のアリバイの存在についても可成り高い蓋然性がある。

これ等の諸点を綜合考察すると、本件公訴にかかる犯罪が被告人の犯行であると断定するには未だ証明が不充分であり、これと同旨にいで、被告人に無罪を言渡した原判決の事実認定は相当であり論旨は採用できない。

よつて、本件控訴はその理由がないので刑訴法三九六条に則りこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

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